私はコントというものに対して、不勉強だった。漫才とコントが内包する表現の違い、そしてそこから生まれる多様なコントの世界に、キングオブコント2020の決勝戦inを見て気づかされた。
コントの巨星が堕ちた2020
これは番組の出演者を紹介するMVで書かれていた一言だ。コントと言えばドリフ、あるいは私の世代ならバカ殿だった。志村けんがコロナウイルスによってこの世を去った2020年を踏まえた煽り文である。
そんな古き良きお笑いになじんだ私にとってコントとは、ただお茶の間に笑いを届ける寸劇といったイメージしかなかった。だがファイナルステージに登場した空気階段とニューヨーク、両者のネタにコントのイメージを一新させられた。
空気階段「定時制高校」
空気階段の2本目のネタ「定時制高校」は、定時制高校に通うクスノキアオイとハルトの恋愛を描いた。
朝まで酒を飲んでいたハルトの、激しい酒やけで聞き取れない声と、酔っ払い特有の読み取れない文字が笑いを誘う。しかしキャラクターの独特さとは裏腹なピュアな恋愛模様に、笑いではなく甘酸っぱい感覚が胸をよぎる。
優勝を狙うなら次々とボケを入れていかないといけない場面。キングオブコントには似つかわしくないシリアスな空気で進んでいくコント。ラストの展開で去来するのは、笑いではなく感動だった。
空気階段はやっぱ圧倒的に好きだな、、2本目はちょっと泣いちゃった。観客もハルトが何を言ってるのかだんだん分かるようになってくるのが凄い良くて、彼女もきっとこうやってだんだんハルトの素敵さに気づいていったんだろうな、って。賞レースの最終決勝で観るには美しすぎるネタ #キングオブコント
— 月の人 (@ShapeMoon) September 26, 2020
この方が指摘している通り丁寧に描かれる恋愛描写で、徐々にハルトの言葉が分かるようになっていく。空気階段でネタを作っている水川かたまり(クスノキアオイ役)は、ネタ終了後にコメントを求められ「恋の尊さみたいなのが伝わればいいなと思って。ホントにそうですよ。」と真剣な顔で話していた。
コントは劇の一形態として単純な笑い以外のものを込められるのではないか。
その考えは続くニューヨークのファイナルネタでも裏付けられた。
ニューヨーク「ヤクザ」
ニューヨークのコント「ヤクザ」では、ヤクザ映画特有の緊張感をそのままコントに表現した。ヤクザの「メンツ」をネタに、兄貴分と弟分それぞれのプライドが生んだ悲劇を笑いに変えている。お互い引くに引けなくなっていく可笑しさと、ラストの哀愁。
そう、一番最後の展開は「笑い」ではなく「哀愁」である。
きっとドリフの時代なら、最後に帽子の中へ何らかのネタを仕込んでおいて、軽い一笑いで締めていただろう。しかしこのネタでは「髪型似あってんじゃねぇかこの野郎」と、弟分に思いを馳せる渋い結末なのである。
ちなみに上記の動画と異なり、キングオブコントでは帽子をとっても髪型が崩れないよう意図的に固くセットされていた。帽子を取った屋敷(弟分)の髪型が似合っているほど、このネタの悲劇性が増されるという構造になっているのである。
短い映画を見たような満足感があるネタだった。コントには純粋な笑い以上の、文化や経験を飲み込んだ面白さがある。
ラバーガール飛永翼の指摘
最後にコントを愛する芸人・ラバーガールの飛永翼の発言をご紹介したい。
僕の中で、お笑いは人を笑わせることなんだけど、コントはどこかせつなさ、寂しさ、恐怖をもはらんでいたりもするもので、笑いで順位を決めるのはとても酷なことだなあ、と思ってしまう。お笑い好きとして、いつかそんな僕の気持ちを代弁してくれるコンテンツが出来て欲しい。
— 飛永翼(ラバーガール) (@tobinaga) September 22, 2019
コントは単純な笑いではないため、賞レースで競うことは難しい。ある種どれだけ「笑い」を取ったかという爆発力でしか評価できないのかもしれない。だが爆発しないネタの中にも、色々な面白さを感じられる作品はある。
だからこそキングオブコントという場が特殊な環境であること、そしてそれがコントの「笑い」という一面のみを見せるものに過ぎないことを、自分の肝に銘じることにする。
それにしてもジャルジャルのネタの爆発力はすごかった。おめでとうございます。