『ダークナイト』のテーマ~「正義」と「悪」
『ダークナイト』は名監督クリストファー・ノーランが往年のダークヒーロー・バットマンを主人公に、世に「正義とは、悪とは」という二項対立を問う力作である。本作において特に注目すべきは正義の味方であるはずのバットマンの行動が、モラルに反するものになっている点だろう。
ジョーカーを拷問するバットマンは悪に接近する
恋人と検事を誘拐されたバットマンは、ヴィラン(悪役)であるジョーカーを拷問し、情報を聞き出そうとする。悪との戦いの中で、自身の行動が「悪」と接近していく。9.11により激化したテロ対策においてCIA(米中央情報局)による拷問が行われていたことは、今や広く知られている。
また『ダークナイト』には、ゴッサムシティの人々の携帯電話を傍受し、ジョーカーを探知するシーンが登場する。モーガン・フリーマン演じるルーシャス・フォックス(バットマンのサポーター)は、バットマンに反対しながらも、本装置を起動する。なぜ反対するのだろうか、それはこの行為が「正義」ではなく、「悪」に近い行いであるからだろう。
なお米国においては、NSA(アメリカ国家安全保障局)が電話回線等の傍受(全世界で970億件/月)を行っていたことが、スノーデン氏が英ガーディアン紙に暴露したことで世に知られた。同氏は情報漏洩罪により指名手配を受けた。
このように実際の「正義」の現場での行為が、いかに「悪」と判別しがたく、「悪と正義の二項対立」が古い価値観であるかという点は『ダークナイト』のテーマの一つであった。
ヒロアカの特色は、ヴィランに重点をおいた描写
本作におけるダークヒーローと言えば、ホークスだろう。ヒーロー陣営の仕掛けたホークスのスパイ活動は、ヴィラン陣営のトゥワイスの精神を徹底的に破壊する。そしてホークスの情報を元に、ヴィランたちの本拠地へと一斉攻撃を仕掛けるヒーローたちの姿は、「正義」の行いとは言い難い非情な奇襲作戦であった。
仲間を守るために命をささげるトゥワイスは、これまで自己を犠牲にしてきたヒーローたちと重なる。ヴィランである彼ら/彼女らの人生が丁寧に描かれてきたからこそ、我々読者もヒーローではなくヴィランに共感する。個性を重視する社会において、「個性的」であり過ぎたがゆえに、社会からはみ出してしまったヴィランの姿に。
私たちが生きる現実世界においては、個性を奪うような均質化の教育が行われて久しく、昭和の時代に政府主導で押し進められた「中流の核家族世帯」というイメージは今も押し付けられ続けている。そしてそういった一定のイメージから外れ、社会からドロップアウトしてしまうケースが社会問題となっている。受験勉強に就職活動、気づけば顔も知らない誰かと競わされている。そういった背景を思えばヒーロー側よりも、むしろヴィラン側に自分を重ねている人は、多いのではないだろうか。
「正義」と「悪」の分かちがたさを描く点において『僕のヒーローアカデミア』と『ダークナイト』は接近する。
『ジョーカー』というヒーロー映画の特異点
バットマン最大のヴィランの誕生を描いた『ジョーカー』は、同様に悪役の人生を掘り下げることで『僕のヒーローアカデミア』の歩みとリンクする。本作においては、ヒーロー映画にありがちな、胸のすくようなアクションシーンは一つも出てこない。あるのは暗澹たる現実だけだ。
『ジョーカー』は告げる。ヴィランは人間である。
ニューヨーク市警は『ジョーカー』の公開に際し、市内全域の映画館に私服警官を配備する厳戒態勢を敷いた。ヴィランへの共感を生む本作が、現実のジョーカーを生んでしまうことを恐れたのである(この背景には、『ダークナイト』の続編『ダークナイト ライジング』公開時に起こった、ジョーカーに影響を受けた人物による銃乱射事件がある)。
本作に描かれたように、社会がヴィランを生むとすれば、果たして誰が犠牲者と言えるのだろうか。
僕のヒーローアカデミアの特異性
ここまで『僕のヒーローアカデミア』と『ダークナイト』『ジョーカー』の共通する要素について考えてきた。では『僕のヒーローアカデミア』が独自にたどり着こうとしているものは何だろうか。
『ダークナイト』において、ヒーローは社会を「守る」ことが役割として与えられている。だからこそバットマンは、恋人と検事を誘拐され、いわば個人と社会を天秤にかけ、どちらを救うかという二者択一の選択肢を迫られる。
『僕のヒーローアカデミア』においては、主人公・緑谷出久は誰かを「救う」存在である。これはキーフレーズとして、本作の要所に登場する。もちろん社会そのものへの視座はあり、正義の象徴たるオールマイトは登場するが、個々のキャラクターにおいては、あくまでもそれぞれの個人への「救い」に視線が注がれる。
筆者が感じるヒロアカの特異点は僕のヒーローアカデミア30巻に登場する。
ヴィラン陣営のトガヒミコは、市民を殺害し変異することで、ヒーロー陣営のお茶子と接近する。お茶子の発する「大丈夫です!私が助けます!」という言葉に、トガは「本当に!?」と返答し、乱戦の末、涙を見せる。
また同巻最終コマにおいては緑谷も、敵のボスである死柄木の表情が「救けを求めたように見えた」と振り返る。本作においてヒーローが全てを「救う」存在であるならば、次の点こそバットマン作品と比較した本作の特有のものだろう。
ヴィランはヒーローにとって救いの対象か。
思えばヴィランは社会からドロップアウトした人々であり、一概に彼ら/彼女らの自己責任に全てを押し付け、「悪」と決めつけることは正しくない。ヴィランも人間であり、ともすれば救いの対象足りうるのだ。それは我々が生きる現実世界において、一度社会からドロップアウトしてしまった人々の復帰が困難な現状ともリンクする、重要なテーマである。しかしすでに多数の人間を殺害しているヴィランを肯定することはモラル的にかなり難しく、今後どのように物語を進めていくのか、要注目だ。
おわりに
同時に、荼毘(轟燈矢)がエンデヴァーの息子であるということが明かされ、複雑化していくヒーローとヴィランの構図。ジョーカーと同じく、踊るように社会秩序を破壊していく荼毘。
そして最新の31巻において明示された、緑谷出久の「救い」への決意。最終章が開幕し、ギアを入れ替えた『僕のヒーローアカデミア』がどこへ着地していくのか。今後も強く期待していきたい。
最終章の第1冊目ともいうべき第32巻は2021年10月4日発売予定だ。
『ヒロアカ』『ダークナイト』好きにおすすめの映画
バットマンやスーパーマンを擁する歴史あるアメコミ出版社・DCコミックス原作の『ウォッチメン』は、本記事のテーマが好きな方であれば必見の一作だ。
ヒーローを兵器のような「戦力」とみなし、「正義」と「悪」の二項対立では捉えきれない社会秩序の維持を描いた作品。わかりやすい爆発やアクションよりも、深遠なテーマをヒーロー映画で味わっていきたいという方は、ぜひ見てほしい。それでは。