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【人さらいの化物の正体】『この世界の片隅に』を考察する

インターネットに散らばる様々な情報から推測した、アニメ映画『この世界の片隅に』の考察集。※多数のネタバレを含みます

妊娠の表現

すずさんの妊娠は勘違い(戦時下の栄養失調による生理不順)だったことは原作で語られている。映画版では朝に二人分のご飯がすずに出されるが、夜には一人分に減っていることで暗に勘違いであったことが知らされる。

この世界の(さらにいくつもの)片隅に

2019年12月に公開された一部のテーマ変更も含む、完全版『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』では、すずが産婦人科に行く前後のシーンが追加され、妊娠というテーマが補強されている。当時の女性にとって出産がどんな意味合いを持っていたかということが分かり、胸が苦しくなる。

この世界の(さらにいくつもの)片隅に

この世界の(さらにいくつもの)片隅に

  • 発売日: 2020/08/05
  • メディア: Prime Video
 

奥へと向かっていく立体的な表現

「この世界の片隅に」は基本的には平たんな、水彩画のような表現が続いていく。しかしその中で、立体的に奥へと向かっていく描写が2つあった。

  1. 晴美の死後、爆弾から逃げるシーン
  2. すずがサギに「広島へ帰れ」と叫び、あるはずのない海苔を乾かす台が並ぶシーン

共通点は「どちらも現実に起こらなかったこと」という部分だ。この立体的な描写はすずの願望を表している、そして当時、戦時下の女性が置かれたどこにもいけない状況と対比されているように感じられる。

広島弁と呉弁

この世界の片隅に

本作では広島弁と呉弁が使い分けられている。この効果がはっきりと表れるのが、後半にある呉を妹のすみが訪問するシーンだ。呉の厳しい現実の中で、「古着じゃが純綿よ」「スフ入っとらんの?」と明るく会話する姉妹の広島弁は、あまりにも場違いなのだ。

その後、焼け野原を前にしてすみの将校さんとのやり取りが明るく響く。当時(原子爆弾が落とされる前)は、軍港としての呉は集中爆撃を受け、広島よりも厳しい状況にあった。

広島から来たすみが道端に置かれた線香の前にしゃがみ、それを呆然とみまもるすずのシーンからは、すでに呉の人となったすずと広島の人であるすみが対比されている。

遊郭の女の子について

①カットされたエピソード

映画版のクレジットでは、最後にクラウドファンディングの支援者リストが表示される。その際に下に表示されているラフ画は遊郭ですずが出会った女の子「白木リン」というキャラクターの生い立ちを描いたものだ。

これらラフ画は予算の関係で入れられなかった「白木リンとすず」を取り巻くテーマに関わる重要なものだ。

②タイトル「この世界の片隅に」の意味

「この世界の片隅に」と「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」では、タイトルの意味が変わってくる。

「この世界の片隅に」

「この世界の片隅に」における「この世界」とは、我々が住む日常である「この世界」を指し、戦時下の日常の中で小さな幸せを見つけた女性の話を書いていると考えることが出来る。

「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」

「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」では、北條周作の過去にフォーカスが当てられることで個人的な、周作にとっての「この世界」を指すように感じられる。

名シーンの意味

この世界の片隅に、わたしを見つけてくれてありがとう。」と周作に語るすずのシーンはどちらの映画にも共通するが、全く意味合いが異なってくる。

そして「この世界の片隅に」ではやや収まりの悪かった「過ぎた事 選ばんかった道 みな覚めた夢と変わりやせんな」という周作のセリフがピタッとはまるのも「さらにいくつもの」の違いである。

まだ見られていない方は、その点に注目してご覧いただきたい。

終戦の描写について

終戦の描写がマンガ原作と映画で全く異なることもぜひ知っておいていただきたい。

①原作(マンガ)での展開

「・・・ああ。暴力で従えとった言う事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなあ・・。」

終戦の放送を受けて、このセリフをつぶやき泣き崩れたすず。そのシーンには、すずの心の声が書かれている。

―飛び去っていく、この国から正義が飛び去っていく―

自分たちが行っている戦争が正義だと信じていたからこそ、すずは明るくふるまってこられたのだ。そうして信じていたものが、「正義」ではなく「暴力」に過ぎなかったと知ってしまったからこそ、「死にたかった」とまで口にするのである。

②映画での展開

映画版では、すずは終戦に対し強い怒りを覚える。

「まだ戦える!右手をなくしただけ!左手も足もある!」

自分が様々な理不尽に耐え、大切な人を失ってまで貫いてきたものを、簡単に捨てることなど出来ない。戦争は彼女を民間人から兵士へと変えていた。

違いが生まれた理由

片淵監督はセリフを変えた理由について、「戦後に行われた意識調査の結果、大義ではなく戦力で負けた悔しさがあるという答えが多かった点」をあげ、すずさんが終戦のタイミングで日本という国家の大義まで背負うのではない書き方を探ったと答えている。

化物の正体について

序盤に登場する化物の正体は、すずの兄である。南国の戦地で死んだとされる「アニ」は、凶暴な「ワニ」と結婚してハッピーエンドを迎えているからだ。どこかで生きている鬼いちゃんが、髪と髭をぼうぼうにして、広島へと帰ってくるのである。

すずと兄の関係性

すずは兄が嫌いだった。自分の身の回りの嫌なことをファンタジー化して、絵や小説にすることで心を守っていた(心理学ではこれを「昇華」という)。だからこそ鬼いちゃんはああいった形で描写されたのだ。

「歪んでいるのは私だ 鬼いちゃんが死んで、良かったと思ってしまっている」

兄の死が告げられるシーンでのすずの心理描写は、兄妹の関係性がどのようなものであったかを強烈に観客へと伝えている。